昭和52年01月08日 朝の御理解



 御理解 第60節
 「おかげは受け徳受け勝ち。」

 私は何時も不思議に思うことがあるんです。それはお互い本当に限りないおかげを頂きたい、いよいよ豊かな大きなおかげを頂きたい、それを願わない者は無いと思うんです。またそれを願っておる人も沢山有るでしょうけれども、限りなくおかげを頂いて行く為には、限りない信心の精進をせずして限りないおかげを願ってもそれはおかしい、いや私が不思議と思う所はそこなんです。本当に限りないおかげを頂きたいね。
 大きな豊かなおかげを頂きたい。ならまずは大きな受けものを、豊かな心を頂かなければならないこと位なことは分からんのだろうかと不思議でたまらん。61節にも「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」と。尽きぬおかげ限りのないおかげ、それには金光大神が話にして残しておって下さるその話のいよいよ深さ広さ、所謂深遠さ、の追求がなされずして限りないおかげに繋がっていく事は出来ません。何がそうあらせるのか、なにがそこに間違っておるのか。
 ある程度の所が分からせて貰うと、もうそれを一つ覚えの様に、もうこれで良いと思うのかね、これが本当と思うのか、そこからキッチリ動こうとしない人がある。これではやはりおかげもキッチリそこで止まる。いや止まるなら良いけれどもね、必ずおかげというものはじっとしておりません。前に進まないなら必ず後ろえ下がって行く。そこでおかげは受け徳受け勝ちと仰せられるのは、いよいよお徳を受けて行く、やはりまず受け徳の方を先に頂かなければ。
 此処に沢山のおかげが置いてある、さあ皆さん要るだけ持って行って下さい、さあもう我勝ちにそれを頂いて帰る、という様な風に頂いておる人がありはせんだろうか。それだったら教祖のお言葉は嘘になる。なぜって、けっしてそんな事ではないからです。おかげが此処に露出しとるという事はないのです。さあ皆さん要るだけ持って行って下さいという風に聞こえますわね。受け徳受け勝ちなんですと。
 だから得をするという、徳ならそうかも知れませんけれどもね、是は受け徳なんです、徳を受けると書いてある。だからその徳を受けると言う事に、いうならば精進しなければなりません。だからお徳を受けた人にはもう敵いません。もうお徳の前には地位も学問も役には立たない。お徳の前には平伏するより外に仕様がない。受け勝ちです。そこでお徳を受ける為に、また限りないおかげを頂きたい為に、限りなく信心を進めて行く。
 何もない最近竹内先生が泉尾から送って頂く本をまあ月々私にして呉れます。実に変哲もない様な教えが毎月同じような教え、ああこれ同じようなことばっかり言われるなあという様な感じです。立派なご本なんですけれども、事新しいという事が書いてない。これは先月ですから十月号。ところがあれだけの沢山の人が助かる。何処にそういうおかげの秘密が有るのだろう。
 私はまだ先生にお目に掛かった事も無いし、只文章の上で先生をまあ知っておるだけの事だけれども、この位の事で人が助かるということはどこに何かがある。そして最近私が少し先生の信心ではなかろうかと思う事はね、「何でもの願い」という事を繰り返しおっしゃいます。「何でもの願い」、ははあ泉尾ちいう所はもうとにかく只一生懸命、もう何でも彼でも願うんだなと。成るほど教祖の神様もそれこそ牛馬の事に至るまで願えと仰る。そういう願いの迫力と言うものが私共と違うのであろうか。
 けれども、そのそういう風でも無さそうな。願いだけなら、私共でも一生懸命いろんな願いをしておる。又何でも願わせて貰っておるんだけれども、違う先生のお話の中に「我が身どう成っても」というお言葉がいくらも出て参ります。私は今月のそれを読ませて頂いて、はあこれだな、これが私共の真似の出来んところだな、と言う風に思うんです。所謂神心なんです。
 自分の身の可愛ゆくない者はない。自分の身内の者は可愛い、自分の好みにおうた者は可愛い。我が身が可愛ゆくない者はない、その我が身をも犠牲にして、いうなら縁のある限りの人達の上のことを祈られる願われる。我が身どうなっても、というこの辺の所が私共と大変な相違がある所だなと、これはとても、そうあろうとしてなろうとして成れることではないのですけれども、如何に神心を目指しての御信心であったかという事を感じられます。神心とは私はそういう心だと思う。
 なら教祖のお言葉を借りると人が助かることさえ出来ればというのではなかろうかね。人が助かる事さえ出来れば、それこそ「我が身どうなっても」という事になるのでしょう。これを一度に私共が、そんなら私も今日から我が身どうなってもという思いになろうとしても中々なれるもんじゃありません、我が身が可愛い。そこにです、出来そうにもないものが出来てくる。自分の心の中の癌といった様なもの、とても取れそうにもないその癌が何時の間にか溶けて流れてしまう。
 昨日一昨日のお届けの中にあれは何とか癌、もうお願いをしておかげを頂いて、それから病院にやらせて頂いた時には、あれは何という人だったかね何とか癌であったか竹内君が知っている。ええおらんと、何とか癌じゃったがね。この御用奉仕の報告書に書いちゃった。癌がもう跡形もなく無くなっておった。という様にね神様のおかげを頂かして貰うと、私共のこれが私の癌だ、これが私のおかげの受けられない基だという様なものが、何時の間にか溶けて流れる様な、おかげになってくるから不思議なんです。
 その願いがいるんです。おかげは受け勝ち受け徳。そういう信心に精進させて頂く時に初めて癌が取れて反対にそれが力になりお徳になって行くのです。もう限りない改まり、限りなく美しうなって行く、磨き清めて行く。そこに一歩一歩神心に近づいて行けれる。その神心がどういう事になってくるかと言うと、これは私の想像ですよ、泉尾の三宅という先生が七十今年四才になられますそうですが、それこそ我が身どうなってもと世界中を駆け回って、世界総助けという風に表現しとられますが。
 助かる事の為ならば、老いの身にそれこそ鞭打って、世界中を駆け回っておられる。そういうお徳を受けていかれるに従って、言うならば、神心が強うなって来られるところからです、私共では考えられない、我が身どうなってもと言った様な心の状態が、広く頂かれておられるのではなかろうか、という風に思わして貰う。いよいよ私共が、お徳を受けていく事の為の精進をしなければならない。ところがそんなら、どういう信心させて貰うたらお徳が受けられるであろうか。
 どういう信心させて貰うたら、癌が独りでに消えるように、おかげが頂けるであろうかと思わない。私が不思議に思うのは、私は信心が出来ません、出来ませんけれども、何時も絶えずその事を思うのです。限りないおかげを頂きたいから、もう限りない修行に取り組みたいと思うです。また限りなく改まって行きたいと思うです。いやもっともっと大きな、おかげを頂きたいと思いますから、いよいよ大きな心の状態に、ならせて頂くことを願うと同時に、大きくならせて頂くための精進を致します。
 私は不思議でたまらんのはそれです。信心が一通り分かった、例えば最近言われる合楽理念なら合楽理念に立脚しての信心、もう完璧とまで言われる合楽理念、その理念に立って、言わばお互い信心を進めて行くならばです、絶対のいうなら間違いの無い、信心に進んで行くことが出来れるんだと、教えて頂いても、それを限りなく、只分かったというだけで、そこにおるだけでは進みはしません。進むどころか、却って後ひざりになって来るわけです。信心は生き物ですから、決してじっとしておりません。
 昨日把木の山口さんが、娘さんの久留米の緒方という、有名な胃腸病院がありますね。あちらの奥さんが、山口さんの娘さんです。久しぶりに娘さん同道で参って見えました。というのは、中学に息子さんが行かれるのに、あれは付属中学ですかね、それにまあおかげを頂きたいと、そしたらね、もう剣もほろろに駄目ですよち、いう事でした。駄目ですよと言うたら、涙ぽろぽろ流しなさいますもん。
 だから可哀相になってですね。神様にお願いさして頂いとりましたら、このネ偏に谷という字を書いた、あれは裕と言う、ひろと言うかネを書いて谷という字。神様と貴方の間に谷がでけとるんだよ。その息子がとにかく七、八年結婚されて、子供が出来んのです。そんため、大変まあ色んな、そのために、問題が起きて難儀しとられる時に、当時の椛目時代に参って来られた。そしておかげを頂いた、子供がもう中学にいく様になっているわけです。
 それから暫く参って来よったけれども、それからパッタリお参りが途絶えてしまった。いうなら谷が出来ているんです。だからね、この神様は詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るから、あんたがこの谷を、例えば十何年間なら、十何年間のご無礼をお詫びをする信心、もう願いというよりも、お詫びのためにお参りをさせて貰おう、信心修行でもさせて貰うという事になって、この谷が埋まってしまやぁおかげになるよ、と言ったら何かホッとしたような顔をしてから。
 どうでも一つ、子供はその中学に入れたい親の一念である。また信心を続けさせて頂きたいから、どうぞそういうおかげを頂きます様にという事であった。だからご無礼をしておるという事、信心をそのままにしておくという事は、もう段々その谷間というものは、谷というものは、深く広くなって行くのです。そして自分から、おかげの受けられない、そして何か頼む時に願う時に、やあやあ言うて参って来ても、所謂受け徳受け勝ちというようなおかげにはなって来ない。
 昨日ある人がある願いで参って来た。この『小さいこの位ばっかりの植木鉢に、丁度私の裏にある様な、大きな蘇鉄が三本植わっとる。』それでもう鉢が小まくて、危なさそうな感じです。だからそれを大地に下ろしたら、立派な蘇鉄として育つだろうけれども、このままではおかげにならん。鉢をまちっと大きくするか、いうなら自然に大地に根を下ろすかしなければという御理解を頂いて、それこそ胸に手を置いて見りゃすぐ分かる。
 私が小まかった私が小さかった、これは言うてはならん、思うてはならん、私自身が大きくなる以外はないんだと、まあ言うて帰られた。大きなおかげは頂きたい、大きく育てたいと思うけれども、自分自身の言わば、今の教団と同じこと。これが金光教だこれが本当だと言うて、枠を作ってしまうから如何に「御取次成就信心生活運動」の新発足ができても増えるはずがない。
 今度ここの学院生が五名正月の御用に参りましたが、いつもよりもお参りが少なかったという事です。新運動が始まって少ないとはどういう事だろうか、只目立つのは信心で無い人達が、三社参りとか、五社参りとかという様な形、でその中に金光様の御本部でも参ろうというた様なのが多かった、という事だそうですね。本当に悲しいことです。信心参りじゃあない、何処何処の何々神社と、同じ様な風になっておる。
 それはお参りがあっておる事は、嬉しい事ですけれどもです、一年のいうならば、お礼やら願やらの為に、本当に信心で参る人達で、溢れる様にならなければならない。しかもそういう、新運動が始まって、教団挙げて力を入れておるのにも関わらず、例年よりも少なかったとは、どういう事であろうか。本当にわからなければいけない。
 それを例えば、箱庭の様な信心ね、植木を一本育てるでも、針金を巻いてからこうするとが本当、ああだと無理をするから育たない。金光教の信心は大きい、もう教祖の信心はもう限りなく、おかげの受けられる信心ですから、限りなく大きくして行くために、それを自然に委ねるという、お道の信心本来の姿に帰らなければいかん。全教が一新しなければ駄目。そしていうなら、合楽で今言われておる、合楽理念を基にする生き方。
 先日教務所から送って参りました、教務所だよりという新聞に、若い先生方の座談会が載っておりました。その中に或る先生が、こうやって一生懸命神様に打ち向かっておるが修行もしておるが、果してこれで良いだろうかと、時々不安になる事があると書いとります。如何にこれが本当だよと、東京行きはこの汽車に乗らなければいけないよと教える
   〔テ-プ切れ  元テープも切れ確認出来ず〕

 人がないかという事が分かりますね。今の合楽理念というのはこれを行きさえすれば真の信心になりますこれを進めて行きゃお徳が受けられます。断言して教えておるというものがないわけです。いやむしろ東京行きでなからんならんのが鹿児島行きをしとるか分かりません。そこにフッと不安が起こってくる、果してこれで良いのだろうか、なぜっておかげが伴わないから迷いが起こって来るのです。
 だから本当にね私共がね『これが本当だと思う心が我だ』と先日から私は神様からお知らせを頂いたから、自分がなら私が今泉尾の先生のお話を聞きながらです、ああいう一つの御比礼を頂いとられるのにお話を頂いておれば別に変哲のない様な感じだけれども、どこに先生の御信心の、言うならば神様からご覧になっての魅力とでも言うかおかげを受けられる基がどこにあるかという風に探究して行って見ると、とても私共では敵わないものがあるものを分からせて貰うてそれはどういう所かと言うとまあ極言して〔読み取り不能〕うと神心が違うんだという事。
 そこで私共がどうあらなければならんかと言うと、合楽理念に基づいた信心がいよいよなされて行くならばいよいよ神心に絶対一歩一歩絶対近づいていけれるんだ、生神を目指して行けれるんだとはっきり明示してあるのですから、もうこれを進めて行く以外にはないと決断されるわけです。しかも進んだだけおかげが絶対これには伴って来るのですから、おかげ実証をふんまえながら信心を進めて行く、そういう生き方をです、私は受け徳というのではなかろうか。
 そこには私はおかげは受け勝ちが約束される。さあおかげは沢山ここにあるから持って行ってくれ持って行ってくれと言うておかげの大安売りしよるのとは違うのです。そして教祖様は受け勝ち、受け徳と言われるけれどもおかげが受けられたと、こう言うならば教祖様は嘘仰っとるとは思われない。
 これは自分達の所謂受け徳の方が足りんのだと言う風に悟らせて貰うて、私が今は本当に不思議で不思議で堪らんのは、皆がおかげを頂きたい限りないおかげを頂きたい、と言いながらその限りない信心に取り組まない事。大きなおかげを頂きたい豊かなおかげを頂きたいと願うなら、いよいよ大きな心にもならせて頂こう豊かな心にもならせて頂こう、という精進をしない事を不思議だということを今日は聞いて頂きました、
   どうぞ。